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以下、引き続き男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章 (文春文庫)
より、100pくらいまでを、引用メモ化。

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「遊び」だって、伝統を背にしているという自信があるから、大胆にやれるのだ。(p26)

衣装とは、洋の東西を問わず、装うものであって装われるものではない。そして、こういうことになると、伝統がはじめてものを言うのである。(p27)


女が少しでも美しく見せたいために、あらゆる努力を惜しまないのは、正当な理由がちゃんとあって、ために真剣な話なのである。だが、男は、真剣な態度でのぞむことは別にあるのが、男というものだ。ずいぶんと保守的なことを言うと思う人がいるかもしれないが、それはまちがっている。

なぜならば、所詮、われわれ女は、身だしなみ以外に真剣勝負をするものを持っている男を欲しているからである。つまり、着こなしに気をつかうことなど、男にとっては遊びに過ぎない。こうなると、男たちの間にあらわれてくる差は、この遊びが上手であるか下手かであるかの違うだけ、ということになる。そして「遊び」とは、真剣でないほうが上手くいくという逆説的性格を持つものである。(p33)


遊びは、ヴァリエーションを愉しめるところにしか存在しない。つまり、選択の自由が愉しめるところにしか、存在しないのである。(p34)

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とはいえ、私は、何にでも嘘をつけといっているのではない。嘘を有効につくことは、真実さえ言っていれば良いのと違ってたいへんに頭の良いことが要求されるのだ。そうそう誰にでもすすめられることではない。世に言う見え透いた嘘とは、頭の悪い人のつく嘘の典型で、もちろん、つくよりもつかないほうがよいに決まっている。つまり、嘘とは、真実を言っていては実現不可能な場合に効力を発揮する、人間性の深い洞察に基づいた、高等な技術なのである。バカにできることではない。(p43)


こういう現実を知ってというわけか、われわれ日本の女たちは、日本語による愛の表現はどうもわが国の男たちにとっては不得意であるところから、「好きだよ」程度で満足しているのが大勢のようである。だが、それだと、大変につまらない恋愛しか味わえないことになるのも、知っての上でのことだろうか。(p53)


「口に出さなくても愛している」とか「言葉を超えるほどの愛」とかいうことを耳にしたり、書いてあったりするのを目にした時、私は、哀れみさえ感じる。そんなことは、外側を変えることによって内側を変えるという、人間相手にしか通用しないこの愉しみとは始終無縁な、感受性の鈍い人々だけの話と思うからである。(p55)


これが自分の世界なのだ、と言えるものを持っている男なんて、まっとくステキではないか。それも、古の人たちと語り合っているのだ、などという表現で伝える男なんて、ステキでなくてなんであろう。マキャベリほどの天才でなくても、私たちの周囲には、きっとこの種のノーブルな魂の持ち主が、意外と多くいるような気がするのだが。そして、それを見出すかどうかは、私たちの心の中に、ステキな要素がどれくらいあるかどうかにかかっている。(p61)


ここしばらく奔放な生き方が賞賛の対象によくなるが、奔放な生き方を貫ける人は、もともとそれをできる環境に恵まれていたが、それとも、古い言葉を使えば人間のしがらみに、無神経でいられる「大胆」な人に限られる。(p61)

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よく、話題のない人、という評価を耳にすることがある。だが、話題のまったくない人などいるものではない。共通の話題がないか、それとも、精神的なつながりを持っていない者同士が話すからである。共通の話題だけに限るなら、同じ職場に勤めていたり同郷の出であったりするだけで、話の糧がつきない程度には見つかるだろう。

だが、ともに同じ「世界」に遊ぶためにはぜひとも必要な、「同じ言語」で語ることのできるつながりとなると、恋愛と似て、一生出会わない人と何度となく出会う幸運な人とはっきりと分かれるように思えるのだ。(p63)


装うとは、着る人間の個性に合ったものであるべきである、という従来の考えに、私はまったく賛同しない。装うとは、着る人間がどのような個性を生きたいかで、決まるものだと私は信じている。だからこそ、素晴らしいのだ。(p71)


問題にしているのは、その関係のあり方なのだ。愛情の介在する関係が甘美な決闘ならば、贈物は武器の役割を果たす。それなのに、チョコレートや花を贈っていれば義務は果たしたと思うのは、武器を有効に使っていないことと同じではないか。いや、何も送らなくても自分の気持ちは相手に通じている、と信じきっている男に至っては、それ以下だから論ずるに値しない。(p94)

悲しみの量のちがいは、できるできないを分ける、決定的な要因ではない。質も、同じことだと思う。それはもしかしたら、量でも質でもなく、悲しみをどのように表現するかの、個人個人の違いによるのかもしれない。つまり、一人一人の性格のちがいに発するのだ。

たいして悲しくもないのに、人前で嘆きの場面を展開できる人がいる。ざめざめと、涙を流せる人がいる。そういう人は、人前であろうと一人であろうと関係なく、泣ける人なのだ。そういう人にとっての悲しみとは、量でも質でもなく、悲しめるという行為の問題なのである。((p100)


厳たる現実ではないから、人は悲しみに酔うことができるのである。人前でざめざめと泣くことのできる男は、やはり少々ウサンくさい感じをまぬがれないのは、いたしかたのないことである。悲しみに酔うのは、せいぜい馬鹿な女の独占であってほしいものだ。((p102)

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男の中によく、僕はめんどうくさくておしゃれをしないんです、と言う男がいる。私はそれを聞くたびに、そういうことは言わないほうがいいんではないか、と言ってあげたくなる。

なぜなら、めんどうくさいということは、おしゃれだけでなく、すべてにつながることであり、また、めんどうだからというのは、感受性や好奇心の欠如を、カムフラージュするのに使われることが多いからである。時間がなくて、という言い訳とよく似ている。私は時間がなくて本も読めません、という弁解を絶対に信じない。

この種の男は、たいていが奥さんが選んて買ったものを身に着けている。そして、こういう男を我慢できる女に面白いのがいるはずはないから、つまり男がわかる女がいるはずがないから、そういう女の選んだつまらないものを身に着ける結果になるのだ。女の選んだ男物というのは、なぜああも明白にそれとわかるのだろう。(p107)
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌


















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