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リバタリアニズムの認知度がどれくらいかを知るため、定期的に「リバタリアニズム」をキーワードに検索しているのですが、ためになるエントリを発見しましたのでメモ化。

新自由主義と新保守主義とリバタリアニズムの区別が曖昧であり、また、「リバタリアンのノージックの主張に、つい気分が誘われる」としながらも「リバタリアニズムが正当化されるはずはないが」という感想を持ち、さらに、「村上世彰」氏をリバタリアンと呼んで良いのがどうかに関する個々人の判断の相違も置いておいて、主題としては非常に納得のいくエントリだと思ったので、以下引用しておきます。(個人的には、村上世彰氏はリバタリアンなのかな?、村上氏ご本人の自己規定はどうなんだろう?と思う派であります。リバタリアンかどうかは基本的に他者規定ではなく自己規定ですし。)

★村上世彰と新自由主義の思想 (1) - リバタリアニズムの動機【世に倦む日日】
http://critic3.exblog.jp/4952395/

(略)半年を経て、気分の上で少しばかり変化が起き、真正面から純朴に新自由主義批判の熱弁を奮うことに億劫を感じ始めている自分に気づく。新自由主義の思想も決して全部悪いところばかりではないのだ。と言うよりも、新自由主義を批判する側が、新自由主義を学び吸収して、その方法や感性や技術を包摂して、自己のものとして、逆に新自由主義を凌駕する理論的な生産力と提案力をアピールできなければ、新自由主義が支配する政治を転換することはできない。私はずっとそう言い続けてきた。

反対派が単純に「反対、反対、嫌だ、嫌いだ」と反新自由主義のシュプレヒコールを絶叫しても、新自由主義の中で生きている人々を真に説得することはできない。それは単に「負け組」の恨み節であり、負け犬の惨めな遠吠えでしかないのだ。新自由主義を批判する者が、新自由主義が持っている長所や武器を積極的にインプリメントして応用し、自己活用している姿を証明して説得しなければならない。

ロールズの格差原理論を批判して、人格の別個性を重視、悪平等を拒絶したリバタリアンのノージックの主張に、つい気分が誘われる。私は村上世彰には全く同情しないし、今回の検察の捜査が不当だとも思わないし、検察の捜査を完全に支持する立場だが、村上世彰的なリバタリアニズムの動機について、日本の皮相的なコミュニタリアンは、もう少し内在的にそれを見極める必要があるのではないか。出る杭が打たれるならまだよいが、足を引っ張られるのは本当に嫌なことだ。

平等主義の根本的病理について、私がすぐに想起するのは「ワイルドスワン」の文化大革命の世界で、要するにそこでは、頭が悪くて難しいことは何もわからないプロレタリアートであればあるだけ、その人間は共産主義者として優秀で、特別な発言権と説得力を党によって保障される。無知であればあるだけいい。科学文明は一切が否定され、何の知識も技術も能力も要らない世界になる。個性は否定され評価を受けない。

人間の大脳皮質は1ミリでよいという極論が事実上正当化され、生産と生活のレベルを極限に低下させる方向に社会が向かう。それは劣情の肯定と怠惰への安楽を動機とするイデオロギーだ。嫉妬で人の足を引っ張ることを毛沢東主義は積極的に肯定し奨励する。能力ある人間が能力を伸ばそうとするのを足を引っ張って、原始共産制の痴呆の泥沼に引き摺り落とし、無能と怠惰と無思考の海で群れ合うことを善しとする。

ノージックは、「嫉妬深い人は、もし自分が他の誰かが持っている物(才能など)を所有できないなら、相手もそれを持たない方がよいと思う」と喝破し、平等主義の思想が人間の嫉妬を契機として「引き下げの均一化」に帰着する点を指摘している。嫉妬に注目したのはノージックの慧眼だ。リバタリアニズムが正当化されるはずはないが、リバタリアンを批判するコミュニタリアンが、こうした問題を内面的に克服できず、毛沢東思想的な「能力の拒絶と無知の癒着」のコミューンを楽園視しているかぎり、新自由主義に代わるものは絶対に対置することはできないだろう。(以下略)


アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界
木鐸社
ロバート・ノージック(著)
発売日:1995-01
おすすめ度:3.5
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