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引き続き、苫米地英人著『洗脳原論』第6章の引用メモ。(第3章・第4章のメモは無し。)なお、これにて、この本の引用メモは終了です。
洗脳原論
春秋社
苫米地 英人(著)
発売日:2000-02
おすすめ度:4.0
おすすめ度4 現代の宗教問題を考えるとき、必読の文献!
おすすめ度4 呑気なことは言ってられない!
おすすめ度1 説得力に欠ける
おすすめ度4 日本が誇る天才、苫米地先生の洗脳とは何ぞや?
おすすめ度3 『影なき狙撃者』みたいだけど・・・

【目次】
第6章 私の洗脳原論
●哲学と宗教
●哲学は世界を救うか
●規範の欠如
●洗脳への無理解
●洗脳から日本を守れるか


第6章 私の洗脳原論

●哲学と宗教
まず、私の宗教観を明らかにし、オウムを生んでしまった日本社会の現状について記述する必要があろうかと思う。

まず哲学というものに誤解があるようだ。誤解というのは、哲学とは抽象的論理の世界のみを扱うものであり、現実世界の現象や、人々の救済といったことには関係のないものと見られていることである。

いってみれば、一部の識者の娯楽であり、人々の日々の苦しみや喜び、さらには死の恐怖や生の喜びとは何の関係もない抽象世界での絵空事であるかのように論じられていることだ。

しかし、これは必ずしも正しくない。
哲学は実際の現実世界での出来事と直結している。私自身は哲学科より博士号を受けているけれども、博士論文は計算機科学と応用数学(離散数理と代数)の学際領域におけるものであって、知識の無から無限大までの表現論の数理モデルとその処理アルゴリズムだった。

これを哲学の枠組みで見ると、存在論に数理科学的な手法を導入したものと考えることができるし、カント以降のメタフィジックスの枠組みにおける知識の領域の研究ということもできる。

分析哲学のモデルは、一般に数学の式で表現することができる。したがって、これを算法表現(アルゴリズム)としてモデル化しプログラムすれば、実際に目に見えるものとして計算機上で実行したり利用したりすることも可能となる。

だから哲学はわれわれの日々の生活から切り離された識者の遊び道具ではない。実際、最近のパソコンに入っている仮名漢字変換のメカニズムなどは、意味表現や統語論表現などのオントロジカルなメカニズムが、実際にプログラム化されている。

同時に、哲学を究めれば、宗教を極めるのと同様、日々の苦しみや死の恐怖も消える。あたりまえのことながら、哲学は、宇宙の存在、生命の存在、知識の存在などを突き詰めて思索するものである。本質的には宗教者の行っていることと変わらない。哲学者が何をしているかきちんと理解すれば、僧侶の方たちにも「なるほど」と頷いていただけるはずだと思う。


●哲学は世界を救うか
哲学をバックボーンにはぐくまれた私の宗教観自体は、オウム事件の前と後とで何ら変わってはいない。先に述べたように、哲学を究めれば、われわれの日々の苦楽から離れ、死の恐怖を克服し、のみならず社会性豊かな生活を営むことができるだろう。

哲学は、自我の存在から宇宙の存在まで思索する学問なのだ。哲学にはさらに倫理学などの分野もある。普遍性ある社会性の価値判断も学ぶことができる。

しかし、オウムの脱洗脳を5年手がけてみて、宗教の社会的役割に関する私の考えは、はっきりと変わった。オウムにはまったのは、現代分析哲学の最先端の言葉を理解しようともしない街のおばあちゃんではなかった。

有名な大学の学生や院生たちである。理科系が多いことも特徴的であった。しかも彼らがはまったのは、現代哲学が提起しているような命題ですらない。神秘体験と称する、青森のイタコさんにでも簡単にできるような鬼神の技のたぐいに過ぎかなったのだ。

オウムの称する神秘体験とやらは、単なる脳内神経伝達物質のいたずらである。街の催眠術師だってうまくやれば引き起こせるレベルの変性意識に過ぎない。別に科学者でなくても、その程度の常識を当たり前に受け止めるくらいの教育レベルは、日本社会にあるだろう。そう私は考えていた。

そんな私の前提は、オウムの脱洗脳作業をはじめたときに崩れ去った。考えが甘かった。正直、日本は危ないと痛切に思った。

おそらくは各伝統宗教が福音を広めるため、土着の迷信的思い込みを方便として利用しようと、そのまま残してきた弊害であろう。とりわけ中途半端に宗教が広まった地域においては、本来の意味での信仰は十分に浸透せず、人間を超える営みの存在を信じるような、いわば迷信的思い込みだけが残ってしまう。

日本がその中途半端な国の代表例であることを、オウム事件がまさしくそれを証明した。

さらに、オカルト科学者は、21世紀の若者に狙いを定めている。占いブームや風水ブームなどに代表されるような迷信やオカルトが一方ではびこり、また心霊現象が誇張されて、漫画やテレビや映画のテーマとなっている。その一方で、人間を超える存在(不老不死を含めて)が、科学の力で可能であるかのごとく宣伝するオカルト科学もまた、漫画やテレビや映画のテーマとなっている。

もちろん私はオウムが宗教であるなどとは思っていない。ただし彼らが仏教徒を称し、チベット密教の教義を掲げてることは事実である。宗派仏教の先生たちは、オウムの教えなど邪教であると、一言で片付けてしまうだろう。しかし、この外道の邪教を日本に許し、さらに拡大までさせたのは、伝統宗教者の怠慢のなせる業であると私は思う。

オウムの脱洗脳を手がけた私の今の率直な感想がこれなのだ。私はつくづく思うようになった。若者の心に悪魔が付け入るアンバランスを生み出したのは、日本の伝統宗教の怠慢である。


●規範の欠如
われわれが自信をもって極めつつある現代の先端哲学や自然科学の言葉で、21世紀の日本を暗黒時代から救うことができるとはもう思わない。伝統宗教の怠慢は、日本人の精神性をそこまでダメにしてしまったと正直感じる。

これはオウムの構成員やシンパたちについてだけいっているのでなない。この5年間に関わってきたジャーナリスト、弁護士、医師、学者、聖職者、会社経営者、公務員らの精神性を間近に見て、そう思うのだ。

アメリカはキリスト教国である。霊魂や超自然的な存在を本来否定する仏教の国ではない。結果、日本以上に、魂や悪魔、自然を超える神的存在が、テレビや映画のテーマとなり、その意味で人々の心は、日本以上に神秘主義の人質となっている。

ただし日本に比べて、伝統宗教(キリスト教)がはるか深く社会に浸透している。そのせいか、カルト問題はもちろんあるが、日本ほどの危機感を国家レベルで感じることがない。それにもまして大人の倫理観は、この5年間で私が直接体験した日本の大人に比べてはるかに強固である。

会社での3メートル離れた部長席への出世が人生のすべて。電車で目の前に立った老人とは目を合わせたがらない日本の大人たち。このすべてを宗教仏教の怠慢のせいだという気はない。

私の本音を言えば、宗教がなくとも、現代哲学は国民に心の平安をもたらす知恵を持っていると思う。ただオウム事件を経験して、そんな悠長なことを言っている場合ではない、日本は危機的状況にあると実感した。


●洗脳への無理解
知識人の一部に、現在のオウムについて、犯罪行為を起こすような人たちではないと認識している方がいる。もはや平和な集団であり、いまさら拉致事件など起こすわけがないという認識である。

一方で、オウム信者は全員深くマインドコントロールされていただけだという人もいる。もともと彼らは人に危害を加えるような人たちではないのに、自分では知らないうちにそうされてしまった、いわゆるマインドコントールの被害者だ、という議論がいまだになされる。

こういう立場をとる法廷証人たちは、彼らはマインドコントロールされていたのだから責任能力がなかった、彼らは被害者だ、という。たとえば、法廷証人でもある社会心理学者・西田公昭の立場がそうである。

しかし、彼らがもともと平和的で安全な人たちであったか否かを推測することはできないが、彼らが被害者だという論理はおかしい。もちろん、私の立場からすれば、こういった彼ら社会心理学者たちの一部が呼ぶところの「マインドコントロール」も、本書でいう「洗脳」のひとつに過ぎないことはすでに本書の冒頭で述べた。

しかし、ここで私が問題にしたいのは、彼らのいうような意味での、「本人に知られないうちに相手を人殺しにまでしてしまうような完璧なサブリミナル手法」としてのマインドコントロール技術など「誰も完成させていない」し、ましてオウムの洗脳手法はこのような定義にまったく当てはまらず、「あからさまな強制力を伴ったものが多い」ということである。

要するに、彼らのいうオウム被害者論はまったくの的外れなのだ。「マインド・コントロール」という名で呼ばれる、相手に一切知られることがありえず、相手を完璧なサブリミナル手法でコントロールするような手法が現実に存在し、さらにそれをオウムは信者に対して行っていた、したがって、オウム信者は被害者であり、当然オウムの犯罪者も法的責任はないとする論理は、根本的に誤っており、社会的にもきわめて危険である。

このような論理が日本の法廷で真面目に議論されていること自体、危惧を覚えずにはいられない。

オウム信者は、たとえば独房修行と称して監禁され、明らかに反社会的なグルイズムをベースとした教義を、きわめて初期の段階から学ぶ。段階を経て、最終的には人殺しまでしてしまうレベルに洗脳されてしまうにしても、その途中の数年間の過程では、何度もオウムの凶暴性やオウムの教義の問題を認識する機会がある。実際、その時点でオウムを脱走した者もいる。

信者が脱走せずにオウムに留まっている理由。それはたとえば、ステージが上がっていい思いができるとか、神秘体験の快感がすごいとか、性的な欲求が満たされるとかいう何らかの「報酬」と、オウムの洗脳修行の「苦しみ」を天秤にかけて、あえてオウムに残っているに過ぎない。

オウムの犯罪性に気づくチャンスは何度も与えられているのに、教義がどうとか神秘体験がどうという理由であえて目をつぶり、オウムに乗っているのである。ドラッグ中毒といってもいい。その意味では、あえて洗脳されたい人々の集まりがオウムなのである。

洗脳におけるドラッグと性的な快感の報酬欲しさにオウムに残り、挙句の果てに人を殺したり拉致したりするまでに至ったオウム信者を、「被害者」とする論理を成り立たせるべきではない。


●洗脳から日本を守れるか
カルトにまつわる心の問題は非常に覆い。まだまだ言い足りない気がする。それでも基本的な「洗脳」という概念や、「脱洗脳」の方法論などは理解いただけたのではないかと思う。

最近、オウムだけでなく、その他のカルトやセミナー団体も次々と問題を起こしている。そのとき必ず誰もが疑問に思う、なぜあそこまで、あんな馬鹿げた集団にはまってしまったのか。

洗脳されるかどうかは、その人が洗脳されやすいかどうかによるのではない。
①洗脳者側の技術がいかに進んでいるか、
②用いられた技術が生得的にその人に有効であるものかどうか、による。

特に最近の洗脳技術は、ますます有効性のある相手の範囲を広げつつある。その意味で、21世紀の日本人全員が、洗脳される側にまわる危機にある。本書がそのような危機から読者を守る知識を十分提供できていることを強く願う。

最後になるが、オウムによる数々の犠牲者となった方々のご冥福を心から祈り、筆を擱く。

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テーマ:読了本 - ジャンル:本・雑誌


















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