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(12月29日;博識な友人よりコメントを頂いたので、「続きを読む」部分に追記あり。)

『<性>と日本語 ことばがつくる女と男』(中村 桃子著)読了。感想を短くまとめますと、差別的発言が多く、何か違いしている日本のオジさん連中を再教育するのに非常に良い本だと思いました。以下、気になった箇所だけ引用し、ツッコミ。
〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男 (NHKブックス 1096)
〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男 (NHKブックス 1096)中村 桃子

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そこで提案されたのが、アイデンティティを言語行為の原因ではなく結果ととらえる考え方である。私たちは、あらかじめ備わっている<日本人・男・中年>という属性にもとづいて言語行為を行なうのではなく、言語行為によって自分のアイデンティティをつくりあげている。

(中略)ジェンダーでいえば、<女/男>というジェンダーを、その人が持っている属性とみなすのではなく、言語行為によってつくりあげるアイデンティティ、つまり、「ジェンダーする」行為の結果だとみなすのである。そして、私たちは、繰り返し習慣的に特定のアイデンティティを表現しつづけることで、そのアイデンティティが自分の「核」であるかのような幻想をもつ(p27)


それは、ある意味、当然のことであるし、また別の意味では違うかな、と。『<日本人・男・中年>という属性にもとづいて言語行為を行なうのではなく』というのは当然のことであって、もしも<日本人・男・中年>という属性の人が言語行為を行うとすれば、それはその人の属性そのものではなく、「社会的地位」や「社会的役割」や、またそれらを含む男性の「主観的自己評価」(よって客観的に見れば勘違いアリ)に基づいて為されますです、はい。

私たちが、「女ことば」を「女が話している言葉づかい」だとみなすのは、「女ことば」が、たんに女性の言葉づかいであるばかりでなく、女性の言葉づかいの規範、「女はこのように話さなければならない」というルールのようなものとして認識されているからである。「女ことば」は女らしさに不可欠な規範とみなされているが、男性はつねに「男ことば」を守らなければいけないとはみなされていない。

その証拠に、女子は「女の子なんだから、もっとていねいな言葉づかいをしなさい」と注意されることがあるが、男子は「男の子なんだから、もっと乱暴な言葉づかいをしなさい」とは注意されない。不思議なことに、「女ことば」という言語資源には、「女はこのような言葉づかいをしている」という知識だけでなく、「女はこのように話さなければならない」という規範が含まれているのである(p38-40)


言ってること自体はわかりますが、これもテーマが「ジェンダー」だからだと思いますが、ちと違うかな、と。はっきり言って、どうして「日本語」においてここまでジェンダー規範が強いかといえば、それは「平民が多いとされているから」だと私には思えてならない。要するに、人と人とのあいだに差異を見出そうと思えば性差だけでなく、他にもたくさん差はあるんだけど、平民が多いという前提を採用するとどうしても、ジェンダーに一番注目しちゃいがち、っていうか。。でも、どうも日本のジェンダー学界では、「貧富の差」や「階級差」や「階層差」などは「ないことになっている」ので、そこに分析のメスが入れられていないだけ、なんじゃ、と。(これ、日本で有名な心理学者・小倉千加子さんも似たようなことを書いていた気がしますし、小倉氏の本が売れている以上、多くの女性は彼女の分析に同意しているのでは、と思ったりも。)

それと、日本語には『「女はこのように話さなければならない」という規範が含まれている』という箇所には同意しますが、その「規範」に「乗るか、乗らないか」の判断は、その人がそうするインセンティブがあると感じる方向へと伸びていきます。その「ルールのようなもの」に従うかどうか、またその「ルールのようなもの」がどの程度規範的に作用するかどうかは、男女という性差がどうこうよりも、貧富の差・階層差・階級差から生じる部分が大きいのでは、と私にはどうしても思えてしまいます。(たとえば、年収100億円の企業家で、性別は女性である人物を思い浮かべてみましょう。そこらへんのふつうのサラリーマンが、男であるという点だけを根拠に、彼女を「ルールのようなもの」に従わせることは可能でしょうか?)

またこのように、一種の知識である「言語資源」という視点から言語行為をみていくと、「私たちの言語行為は言語資源と結びついているカテゴリーからのずれを生じており、この「ずれた行為」が画一的なカテゴリーと結びついた言語資源を変革する可能性を前提としている。日本語を言語資源という視点からながめることは、言語資源と言語行為がお互いに影響しあいながら変化していくダイナミズムを明らかにする道を開く」(p47)


同感です。ですので、大事なのは分析ではなく、「文学」です。
笙野頼子こそ「文学」です。

こうした言語資源の変化は、すべて日本国内で生じているわけだが、「日本国内での人間関係の変化が、言語資源を通して、国外の人間関係の描写に投影」されると、翻訳でも新たな事態が生じる。

(略)国内で上下関係よりもクールな距離感や親疎関係が重視されるようになったために、あたかも国外でも同様の変化が起こったように、国外の人びとの発言も訳し分けられるようになったのである。言語資源は、日本人が国外の人びとを日本語の枠組みでしか理解できないようにしている足かせにもなっていると言える。(p78)


これも、翻訳した経験がある人からすれば、ふつうのことだと思います。だからこそ、自分の専門分野くらいは、少なくとも英語で読めなくちゃ損であります。

というか、こういう本を読むのは「読書体験」としては有用だと思うのですが、いくら、言語とジェンダーの関係を分析してみたところで、実際起きている差別そのものを減らすのには、あんまり効力がないですよね。。で、経済学でも、人の欲望(正確には、自己の利益を求める欲望。)を基盤とした、インセンティブ理論というものがありまして、ちと引きますと、

>http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0129.html

「経済学では、書面に書かれたフォーマルな契約のみならず、必ずしも契約に書かれていなくても、長期の信頼関係の中で互いの行動を予測することで保たれる一定の行動パターンも「契約」と見なされる。後者の契約は、「関係的契約(relational contract)」ないし「暗黙の契約(implicit contract)」と呼ばれている。」

のです。たとえば、ある企業において、ある女性が「これはセクハラです」だとか「モラハラです」という不快感を表出化したとき、それはフォーマルな契約のみならず、「関係的契約」をも超えた何かがあったということを意味します。

要するに、「セクハラはイヤ!」という女性の悩みや苦しみを減らすには、端的に言ってしまうと、あらかじめ差別が起きないような制度を経済学的に構築した上で、最終的にはセクハラ加害者を「関係的契約を守るように洗脳しなくてはならない!」というだけの話なのですが、どうも、ジェンダー論やフェミニズムを介してしまうと、メンドウな方向へ行ってしまうんだな、と思います(苦笑)。

それと、正直、どうしても、普通の会社で働いているセクハラやモラハラ被害を受けている女性たちや、恋人や夫という親密な他者からDV被害を受けている女性たちからすれば、ジェンダーと言語の関連を分析して、男女の権力関係を明らかにする、というような次元の話はどうでもいいんじゃ、と思ってしまうんですよね。。

なので、もっと単純に「差別をなくしたい」という欲望を持った個人が何らかのアクションを起こす場合、「いったい、何をするのがベストなのか?」をこそ明らかしたほうが多くの人の役に立つだろうし、そのための道具としては、経済学が今のところベストだな、と私は思っております。

以上、mixi日記にアップしたところ、博識なマイミクさまよりコメントを頂いたので以下引用。


ジェンダーと言語については、私も何度かに渡って考えたことがあるのですが、一言でいえばここで紹介されている本のようなものは「実は言語というものを理解していない」といってしまってもよいのではないかと思います。

この本の下敷きになっているのは「ソシュール→デリダ」の言語観と、それを換骨奪胎したジュディス・バトラーであって、そこから一歩も出ていません。

たとえばジェンダーは言語行為の結果だとあるけれども、ではそもそも言語におけるジェンダーはなぜ存在するのか。「言語がそうなているからだ」では同義反復に過ぎませんし、「ジェンダーがあるからだ」では「ジェンダー⇔言語」の循環論になってしまいますね。

これは「言語」をすべての底板だと考えることから、必然的に起こる誤謬なんです。

なぜ「言語」を底板だと考えるかというと、ソシュール言語学を前提としているからです。ソシュールの言語学は、時間軸が存在しない(時間の経過を考えない)共時論として展開されています。簡単にいうと、ある時点での「言語」の在り様を調べるということ。

有名な例ですが、犬科の動物をある地方では「犬・狼」に二分するのに、同時代の別の地方では「犬・山犬・狼」の3種類に分類している。「分類の仕方」は「言語の在り方」によって規定されている。そしてこの分類の仕方は恣意的である。これがソシュールの考えです。

このソシュールの言語論は共時論ですから、なぜA地方では二分法なのか、なぜB地方では三分法なのか、その由来を調べたり考察するということを、まったくしていないのです。

だけどちょっと考えれば、世界分節というのは、言語が底板なわけではなくて、欲望(必要・関心)が底板だということがわかります。

たとえばA地方では、「人間が飼いならせるもの」と「人間にとって危険なもの」という大雑把な分類で、犬科の動物を「犬・狼」に二分しているのかもしれない。それに対してB地方では、「A地方でいう狼」をさらに習性の違いなどによって「山犬」と「狼」に分類したのかもしれませんね。危険を避けたいというそもそもの欲望・必要・関心があって、そのための手段を工夫する必要上から、「犬科の動物」を観察する。その結果、A地方では気付かれなかった細かな違いに、B地方では気付いていたということなのかもしれません。

だけど、共時論であるソシュール言語学では、このような世界分節の原理は、まったく捨象されてしまています。

つまりソシュールの論は「言語を共時論的に見ればこうだ」というものに過ぎないのですが、デリダやバトラーは、これを「言語についての一面的な見方に過ぎない」ということを知らず、まるで「言語」についての真理であるかのような扱いをしている。構築主義も、それを前提としていますから、要するに前提から間違ってるわけです(^^;)。



追記。ちなみに、私は、言語学に全く詳しくありませんので、真偽の程は各自で確認しましょう、ということで、とりあえず終了。
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