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この前、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』遥洋子著(2000年)を移動中に再読。(以下アマゾンへのリンクは文庫版ですが、私が読んだのは2000年に出たソフトカバーのほう。)

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ (ちくま文庫)
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ (ちくま文庫)遥 洋子

おすすめ平均
stars東大上野フェミニズム
starsそんなにいいか?
stars7年ぶりに再読して
stars固定観念を疑え
stars格闘する学問と学問と格闘する志ある者の姿を活写

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内容はというと、タレントの遥洋子さんの手による日本で一番ポピュラーな「マルクス主義フェミニズム」の入門書であり、なおかつ人文科学アカデミズムにおける「議論の方法」の入門書でして、1冊で2度美味しい感じであります、はい。上野千鶴子氏のゼミに通ったという点と、本書の中にある、

私がノックしたフェミニズムの扉はどうやら、学生運動と続いているようだ。意外なところにどりつくなあ。リブから、マルクス主義フェミニズムまでの歴史上の人物が、今ここに、この一部屋に集まっている、と思うと、感動した。

(略)意外なところでであった、学生運動。運動も人もその形を変えていき続けている。上野は連合赤軍事件のことをこうふりかえる。「わたしを含む全共闘世代のひとびとにとって、見たくない過去、できれば忘れてしまいたい歴史の汚点(同前)」(p64)


という箇所からも、この本が、マルクス主義フェミニズムの本だというのがわかります。また、

「ここで、なにを勉強しにきたの?」
本郷にある研究室で、上野千鶴子教授はまっすぐ私を見ながら聞いた。
見渡すかぎり本だらけの中に教授はいた。
「議論の構成の枠組みです。」(p12)

確実に、的確に、瞬時に、相手に打ち勝つ方法を私は探していた。
この、どれが欠けても、番組という制約上、勝負が成り立つどころか、果敢に挑みかかっても、不様に玉砕していく女性を何度と無く見てみた。それは、ああなるくらいなら戦わない方が、マシ。と思わずにいられないみじめな構図だった。しかし、私の知る限りたった一人、みごとの勝ち続けている女性がいた。上野千鶴子だった。この人に教わるしかない。そしてその日が来た。(p14)


とあるように、著者の遥氏は、タレントという職業柄、番組内で討論する機会が多々あったものの、ご自分の発言に対する視聴者への影響力の大きさとその責任を自覚し、「議論の構成の枠組み」を学ぶために上野教授のゼミに通い始めたとのこと。で、人文科学の世界は、

学問の世界、ことに人文科学の世界は権威至上主義社会である。権威は真実であり、真実とはすなわち権威である。権威は権力によって維持される。そして権力はあらゆる社会、あらゆる文化において、男達の手中にある。(『フェミニズム批評』織田元子著 1988年)


とのことで、なるほどな、と。。いや、人文系の人って、私から見ると、なんていうのかな、ムダに権威主義で言葉や用語や定義に溺れていて、数学や統計解析が苦手だから文字だけで理論を構築できる世界にひきつけられる人が多いのかな、って思っていたので、なんとなく納得。以下、そのほか、引用しつつ色々とツッコミ。

リブ誕生の背景には新左翼の女性達が引き裂かれた現実があった。
男に愛されようとすれば「戦力」にならない「女らしさ」のなかに甘んじなければならず、男なみの戦力を発揮しようとすれば「男まさりの女」として、男から愛されることを断念しなければならない。(『連合赤軍とフェミニズム』上野千鶴子)


今の時代ではあり得ない発想ではあるけれど、上野先生の時代の女性たちにしてみれば、こういう現実認識があったんだな、と。というのも、そのへんを歩いてみればすぐにわかる通り、現実的には、男・女といっても様々ですし、よって、男らしい・女らしいも様々ですし、また、女らしいから、男らしいから、といって愛されるわけでもないことくらい、皆さんご存知だと思うので。

あと、女性も男性も何もワザワザ「愛されようと」しなくて良いと思いますよ。だって、そういう戦略って、やられるほうはウザイですし、傍目から見れば魂胆バレバレなので、あんまり意味ないかと。。個人的には、愛されるかどうか、というような曖昧な他者評価ではなくて、自分で自分が好きだと思える方向性へ進んでいけばいいだけだと思います、はい。それと、この記述において「男」とは、結局、権力や戦力のある男、であり、「権力も戦力もない男は視野に入っていないのかな?」と思いました、はい。。

『道徳派フェミニスト宣言』の著者、永田えり子さんを交えてのゼミにて。

まず、上野は聞く。
「なぜ、道徳という、いわばフェミニストたちにとってのダーティワードを本のタイトルに選択したのか?」

(略)道徳のみならず、伝統、本能、文化。これらの言語装置がいかに女性から自由を奪い、自由を欲する気持ちも奪い、あげく、戦う気持ちすら葬ってきたか。どれをタイトルにもってきても、フェミニストたちの神経を逆なでするのは必至だ。(p74)


ああ、なるほど、どうりで。。勘違いされると面倒なので書いておきますと、私は「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」(二ノ宮尊徳)という言葉をたまに引用しますが、それは、いわゆるビジネス・エシックス(経営倫理学)的な意味合いにおいて、ですので。

それにさ、思うんだけど、道徳でも伝統でも本能でも文化でも何でもいいんだけど、そういう言葉って、あくまで発話者がそう思っているそれ、をその人が言っているだけであって、わざわざ「神経を逆なでする」必要性はまったくない種類の代物ですよね。なので、まあ、マルクス主義フェミニストの方々も、そんなに意気込んで「神経を逆なでする」必要はないじゃ、と思ったりも。そういうときは、「あなたはあなた。わたしはわたし。」「あなたの伝統や道徳や本能や文化がいったい何なのかわかりませんが、あなたはあなたのそれをお大事になさったらいいのでは?こちらもそうしますので。」くらいの感じでいいんじゃ、と。

議論になると、かならず、そこは激情の嵐となる。なぜ、議論すると、つまり、女性が男性のいうことに反論すると、彼らはああも感情的になるのかは、私の長年の疑問だった。が、小田元子が『フェミニズム批評』で男性心理を見事に分析し、男性自身がなぜそんなにも自分が優位に立つことに固執するのか、そしてそのためには女性の劣等性がいかに不可欠であるかを暴いてくれていた。
「女からのちょっとした反論に顔面蒼白で怒りだす男など珍しくもない。」―彼女はそういいきれる背景として、ウルフの次のような言葉をあげている。

女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。(『私ひとりの部屋』)(p83)


笑った~(笑)。久々で院生の頃を思い出してしまったわ(笑)。感情的にさせるだけならまだしも、わたし、思わずトドメを刺してしまってさ、精神病院に入院させちゃったこと、何回かあるのでw。(いや、やりすぎちゃったかな、とは思ったんだけど、そこまで逝ってしまうとは予想していなかったのですよ、ホントごめんね、みたいな。)

というか、ちと話は逸れるけど、ある種の女性群は、男性の「人生への適用力」を阻害しないために、「賢い女は男を立てる」だとか「サレンダード・ワイフ」だとか「男と女は違う星からやってきた」(←google検索結果へリンク。)だとか、そういう俗流心理学系の戦略を採用しているみたいだけれど、あれって、一歩間違うと、すごいことになるんだろうな、って思うんですよね。。

だってさ、そこらへんにいる男性なんて、塩野七生さんの言葉でいえば「間違ったマザコン」藤森かよこ先生の言葉でいえば「自分の人生を自分自身で作れないので、他人に介入することでしか暇がつぶせない女に、ヴィジョンも見識もなく、気まぐれに世話され、いじくられすぎたんで、世話されて構われていないと安定できない人間依存症になっただけの人間」で、盛岡正博大センセイの言葉で言えば「マターナリズムに犯されたマザコン」であって、そういうのを捕まえて、いくら「男を立てる」だの「サレンダード・ワイフ」だの「男と女は違う星からやってきた」だのをやってみたところで、単に、つけあがらせたり、甘やかしたりするだけなんじゃ、と。。

それと、個人的には、私は現状において広義の商人ですので、遥洋子さんが言う意味での「議論」において、勝っても別に何のメリットもないので、そこで勝負するんじゃなくて、結果で勝負するという感じ。で、プライベートな異性関係においては、最初から間違ったマザコンや不細工や短小っぽい人は排除、という感じ。(だって、そんなの要らないよね。。マザコンや不細工な男性なんてそこらへんにいるんだから、何も家に帰ってまで見たくないし。ちなみに私の配偶者はマザコンでも不細工でも短小でもないので何もご心配はいらないよw。)

自分の育てた学生が自分に挑む。教授はどんな気持ちだろう。『<わたし>のメタ社会学』で上野は書く。
私のこの「社会科学」観もまた、その限界ぐるみ、90年代の今日の認識論的地平の産物である。(中略)この立場もまた、いずれ乗り越えられていく運命にあるだろう。数え切れない文献の数だけ研究者がいる。過去から現在まで、学問の歴史は「乗り越える」作業だ。あらゆる発見が次世代によって、乗り越えられる。学問が「万人にとっての真理」でないことは最初に叩き込まれた。(p93)


だよねえ、そのまんま、大先生の言葉や論理を信じてたらダメだよね♪

織田元子は『フェミニズム批評』(1987年)で女性作家についてこう書く。
「女性作家はたとえフィクションのなかであっても、本心をさらけ出すとは限らない。(中略)彼女達には、絶対破ってはいけないタブーがあった。男を批判してはいけないというタブーである。これをやると、作家生命がなくなると見てよい。」(略)しかし、織田元子の洞察は一筋の光明を与える。「それでも彼女達は書いた。この事実こそが重要なのだ。」と。(p102)


なんだか、笠野頼子さんの『文士の森』を思い出させる記述だな、と思いました。本書のなかで引用されている織田元子さんの書著は1987年出版なので、ちょうど20年前。現代ですと、笠野頼子さんはもちろんのこと、作品の中で男性批判を行っている方はけっこういるので、時代は進んだようです。

その日、私は友人達をひきつれ、上野千鶴子講演会に出向いた。その日のテーマは「関西文化論」だった。ファッショナブルに決めた教授がステージに立つ。
「文化とは権力や経済力を持たない負け犬の持つものです。」から始まる文化論。わかりやすい言葉と笑顔をもってしても押さえ切れない過激さ。(p167)


あ~あ、出たよ、と思う、こういう記述を読むと。。ホントに芸術が肌感覚でわかってない人って嫌だなあ、と、こういうとき、いつも思う。あのさ~、「文化」という言葉が具体的に何をさしているのか説明がないので不明ですが、そのへんに流通している大衆文化や商業芸術と呼ばれる代物は、権力や経済力のある方々や商人が、庶民の欲求を満たすために創ったものなので、大まかにはその記述でもけっこうなのですが、商業芸術を含む芸術と呼ばれる領域ではですね、負け犬だとか勝ち犬だとか、そういう作品を買いもしない素人の基準なんてナンセンスなんですよ、創ってる側からすれば真剣勝負なんだよ、金も鑑識眼もないド文系が、勝手に判断するなよ、何でも「文化」でまとめあげて、すぐに「講演会」にしてしまうんだから。。

言葉を放棄しても、人は言葉でものを考える。感情も言葉で知覚する。人は言葉でできた社会の構築物であることを認めるしかないのだ。(p235)


あ~あ、とまたしても思う。社会構築主義ね。。でもさ、考えてみてよ、「言葉でものを考える」ってホント?「感情も言葉で知覚する」ってホントに?私は社会学の人でも人文科学の人でもないし、自然いっぱいの場所でバッタをとって遊んでいたような種類の人だからこう思うのかもしれないけど、それはあり得ないってばw。私は、少なくとも、言葉で思考しない人なんだけどな~。だからなのか、仏教用語でいうところの「煩悩」が少ないんだろうな~。しかしさ、「言葉で頭がいっぱい」の人文系の人たちって、ホントに煩悩が多そうだよね。。だから妙なカルト宗教だとかマルチ商法とかスピリチャルにハマる伊田センセみたいなトンデモさんが多いんじゃないの~?(笑)。

と、意地悪なツッコミはこれくらいにして、感情を言葉にするとき、当初あった感情が「強化される」だとか「減少してスッキリする」とかならあるだろうけど、感情を「言葉」で「知覚」するってないよね。。それとも、自分の感情を他人に言葉で伝達したとき、相手が発話者の感情を人知覚する、って意味?それとも、言葉で読み手や聞き手の感情を操ることができる、って意味?(それならわかるけど。)でも、まさかそんな普通のことを言うためにそんな面倒な説明するはずないよね、違うよね?というか、社会構築主義がどんなものなのかは知ってるけれども、最近、社会構築主義はダメ、って言われちゃってるけど大丈夫なのかな、大丈夫じゃないよね。。と思ったら、ちゃんと書いてあったよ♪

真実は一つ。幸せは一つ。などという考えがいかに危険で、それらの思想がいかに人をだましやすく、どれほど多くの人がワナにはまったか。(p242)


なので、まあ、マルクス主義フェミニズムも、社会構築主義も、ワナである可能性がある、よね、と。ということで、感想をまとめると。うーん。。正直、本書は著者が述べている通りエッセイですし、読み物としては面白いと思うのですが、やっぱり、私には人文系の分野は合わないな、と思いました、はい。
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