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ついでに、ツッコミ所を発見してしまったので、さっきアップした「スピリチャル・フェミニスト伊田広行のアタマのなか」に引き続き、パート2として、以下、1箇所だけ、ツッコミ入れておきますわ。
「スピリチャル・フェミニスト伊田広行のアタマのなか」で取り上げたトンデモ論文において、最後のほうでいきなり伏見憲明氏の『欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない』に触れ、

検討すべき諸点を提出している本であるが、ことジェンダーとジェンダーフリーについては、かなり表層的な理解に陥っている。ここで言う「表層的」とは、「伊田のジェンダー概念の整理」の水準を踏まえていないという意味である。


と書かれており、ああ、もう呆れるしかないな、これは。。
伊田が勝手に「加藤秀一氏の定義を土台として」勝手に定義した『「伊田のジェンダー概念の整理」』なる奇妙な定義を、「踏まえていない」から「表層的な理解」なんだってよ。。自己中心的にも程があるでしょうに。。。

という感想を持った私でありました。で、以下、同じくスピリチャル・フェミニスト伊田のホームページで『伏見憲明『欲望問題』(ポット出版 2007年)の検討―――差別問題を否定せず、スピリチュアルなレベルの差別問題に発展させていこう』なる文章内で発見し、またしても驚いた、という感じ。。以下、引用。


伏見氏は、「日常での性愛に充実を感じている人たちの目で見たとき、男女関係は必ずしも支配と被支配の関係ではない、現実は必ずしも一つではない」(p119)、「〈性別二元制〉の批判はある面の男女関係を全体に敷衍した乱暴な見解だった」(p121)などということが、あたかも従来の差別理論の欠陥をいいあてている大きな発見のように言っているが、私からみれば、こうした記述一つ一つが、すべて伏見さんの過去の単純化の問題なんじゃないの、という気になる。

私の理解するフェミでは、男女関係のある側面が支配と被支配の関係ではないのは当然である。すべてが支配と被支配だなんていうのは、マッキノンとドウォーキンといった一部のフェミニストの主張の悪い面だけを言うレベルのフェミで、私にとっては間違っているものである。



あらら。。伏見氏の言葉に反論するとするならば、伊田の考えるフェミニズムは「日常での性愛に充実を感じている人たち」ではなく、主に、社会からなんらかの性役割を期待されているがゆえに性愛に充実を感じていない人たちを対象にしている、くらいにしておけば良かったんじゃ、と思ったり。

それと、いつマッキノンとドウォーキンが「すべてが支配と被支配だ」なんて言ったのかしらねえ、「すべて」とは。。伊田は原書どころか日本語文献さえも読んでないのは明らかですなあ。英語が読めないならば、周囲の誰かに聞くか、少なくとも、
★『インターナショナル・ビューポイント』のフェミニズム特集によせて かけはし1998.4.6号 キャサリン・マッキノンの擁護』(岡崎等)
くらいは読んどけば良かったのに。。いろいろな解釈があるのに知ったかぶりして、見事に、墓穴掘ってるんだけど。。結局、伊田は、専門性が無ってことなんだろうね。

ちなみに、私は法学者でも弁護士でもないくせに、キャサリン・マッキノンをバカにする日本のヘボ・ジェンダー研究者を全く信用しておりません。マッキノンは、あくまでポルノグラフィを「法的に規制するために」ああいう主張をしたのであって、そこらへんのジェンダー研究者は「おべんきょう」のためにマッキノンの主張をこねくり回しているだけなんですもの。

★日本女性学会&イダ氏議論関連リンク
を発見。ということで、同じ分野の方々からも、トンデモ認定を受けている様子です、はい。(もしも立命館などの学生さんで、伊田の授業を受けている方いましたら、気をつけてくださいね。どんな分野であれ、まとも先生から習うのが一番です。)

ツッコミ入れたのに消されてしまうと何なので、一応、魚拓をとっておきました。
http://s01.megalodon.jp/2007-1018-1859-43/www.geocities.jp/idadefiro/fushimi.html

【追記】10月23日
『欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない』を入手したので、上記で引用した伊田の文章にあった該当部分を読んでみたのですが、「伊田という人は他人の本を自分の都合の良いように曲げて読む人なんだなあ。」ってことがよくわかりました。。やはり、トンデモさんだな。。以下、伊田が引用した部分と比較するために、『欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない』より正確に同じ箇所を引用しておきます。

ぼくがかつて立ててみた抑圧的な<性別二限制>という構図は、ある側面からみたときの、ジェンダー、男女関係の像です。でもべつの角度、たとえば、そこでの性愛に充実を感じている人たちの目で見たときに、それは必ずしも支配と被支配の構図ではありません。差別の痛みに囚われているときには、それは抑圧的な像としか見えないけれど、そういう感度がなければ、いくら性愛が差別で成り立っていると言われても、ピンとこないに違いありません。「現実」は一つではないし、そのどちらの像もありえる。(p119)



今のぼくには、<性別二元制>自体への懐疑という図式は、ある面での男女の力関係を全体に敷衍した、きわめて乱暴なものだったと振り返ります。性という場にある、他のさまざまな「欲望」を無視して、ある側面の力関係だけにフォーカスして見えるのは、人間の日常に対して抑圧的な二元化だったと思うのです。人の日常の喜び、幸福というのはちっぽけな「欲望」の集積によって成り立っています。その細々としたものを排除して、一つの「欲望問題」に特化した形でとらえようというのは、かえって権力的な物言いだったと反省すべきでしょう。また、そういう方向は人間をけっして幸福にはしないはずです。共産主義や全体主義のなりゆきを見ても、社会を単純な構造としてとらえて、そこから「正しい」ありよう個々の人間に強制する政治は、悲惨な結果しかもたらさなかったと言えます。(p121)


どうも私には、伊田が言うように伏見氏が「あたかも従来の差別理論の欠陥をいいあてている大きな発見のように言っている」ようには思えないですわ、やはり。
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マッキノンの議論についていえば、彼女は実際に現代の米国社会では実質的にほとんどの(ぜんぶじゃないけど)性関係が支配関係であると主張していると思いますよ。
岡崎さんの紹介はちょっと甘すぎると思いますので、あれをまにうけたらいけません。somaliさん自身はマッキノン読みましたか?(feminism unmodifiedとtoward feminit theory of the stateぐらい)あとストロッセンは翻訳が出たらしいです。
【2007/10/22 10:02】 URL | foo #-[ 編集]
fooさん、コメントありがとうございます!
マッキノンは読みましたが、日本的なフェミニズムの文脈ではなく刑法の文脈で読みました、法経済系の者なので。日本ではどうもマッキノンが法学者である、という点が忘れられがちだと思います。

それとfooさんは、伏見氏の『欲望問題』読まれましたか?伊田氏はウェブ上の文章で「伏見さんは混乱している」と書いているのですが、どうも「混乱している」のは伊田氏のような気がして。。もし既読でしたら感想お聞かせください!
【2007/10/23 05:55】 URL | somali #HYdeU6gc[ 編集]














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