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フェミニズム、と一言でいっても、その内容はといえば様々でありまして、というか、正直言って、バラエティに富び過ぎているからか、「あ、それなら納得できるな。」という比較的まともなものから「トンデモだな〜」とどうしても思えてしまうものまで沢山ありまして、一つ一つ体系的に説明していくと、収拾がつかなくってしまいますし、私個人も、フェミニズムという思想を事細かに知っているわけでもないので、以下、いきなりではありますが、「もしも私がフェミニストだとすると、コレだな。」と常々思っている、「リバタリアンフェミニズム」についての覚書き。

まず、ここでは、おおまかな定義として、第1部 リバタリアニズムのキーワード(森村進 編著 (2004) 『リバタリアニズム読本』 を引用してくれている立命館大学内のページ)の説明を採用します。以下引用。

8 個人主義的フェミニズム individualist feminism

 個人主義的フェミニズムがリバタリアンフェミニズムと呼ばれるのは、個人の選択の自由と自己責任を根本的な価値と考えるためである。(P22)

 個人主義的フェミニズムは、男性と同様に女性にも自然権が保証されるべきだと主張するが、それは正しい法の下で男性と女性が等しい取り扱いをされることを意味しており、決して政府による優遇措置を要請しない。(P22-3)

 個人主義的フェミニズムが目を向けるのは、”集団あるいは階級”としての女性ではなく、あくまで”個人”としての女性である。(P23)


次に、日本で一番有名かつ頭脳明晰なリバタリアン・フェミニストである藤森かよこ先生のHPを読むことで、リバタリアン・フェミニズムの、大まかなイメージを掴んでみましょう、というコーナー。

まず、リバタリアニズムについて藤森先生が言及していた箇所を。中島哲也監督の『下妻物語』を絶賛する藤森かよこ先生。私も下妻物語は見ましたが、非常に感動しました♪

日本リバタリアン文学&映画第一弾! [08/09/2006]

(略)リバタリアニズムのいいところは、人間が自分自身で心から納得して選択した生き方に関して、他人のその同じ権利を侵害しない限り、物理的強制力(暴力)に訴えない限り、その中身自体には関与しない、規制しない、価値判断しないという点です。

「共通善」と照らし合わせて、こういうのはまずいとか言う「倫理的規制」もしないです。私自身、安楽死も麻薬使用もポルノも、規制する必要があるのか?と思っています。本人が納得して選んだことならば、好きにさせとけと思っています。それで死んでも、別に構わないではないですか。自分が選んだのだから。

私は、「異常なるお節介」だから、一応は、「これはまずいんじゃないか?」と思ったときは、愛する人々に、はっきり意見を言いますが(どうでもいい人には言わない)、あらかじめ諦めつつ、あえて言いますよ。私の意見を採用するか採用しないかは、その人の自由。人間には、傷つく権利だって、不幸になる権利だって、あるんだから。愛する人間が、あえて不幸になり、あえて傷つくのを見守っているのは辛いことではありますが、しかたない。

その人の人生は、その人のものだもんね。もう、その人の守護霊さんに、「この人を守って差し上げてください。よろしくお願いします。私は何ともできないので」とお願いする以外に、なす術がない。


次に、本題のリバタリアニズムとフェミニズムの関連について。
弱くて運が悪い人間は滅びるしかない [01/31/2004]

私はフェミニストではあるが、家庭内暴力の亭主に殺されてしまった女性に同情しない。こういう事件は悔しさで涙は出るが、加害者は死刑!と思うが、被害者に同情はしない。

フェミニズムは、無用心で馬鹿で努力もしなくて情報収集もしなくて怠惰に甘ったれている女を、さらに甘やかす思想ではないです。「機会の平等は絶対に確保するべく徒党を組もうね、女だからということだけで搾取されないように気をつけようね。頭悪いとコケにされるからね。自由でいたかったら、女もそれに見合うだけの勉強も努力もしようね、責任もとろうね、負けることはあるけど、男だってほとんどは負けるんだからね、女だから負けたとか愚痴いいなさんな、勝てば勝ったで、これもまたきついんだからさ、そういう覚悟持って生きましょうね、奴隷になっていたくないのならばね。アメリカの黒人だって、太平洋戦争や朝鮮戦争で、あれだけ血を流したので、1960年代に公民権運動ができたんだからね」
という覚悟の思想が、フェミニズムです。アホ馬鹿怠け者女なんか、知るか。



「努力すれば報われる」とは、希望ではなく酸素である [01/19/2005]

横暴なつまんない男なんか相手にしないもん、というのはフェミニズムの成果。リスクのある人間関係を引き受けて苦労するのはかなわんわ、結婚したら家事だの育児だの介護だの女の方に負担がかかるのは目に見えているんだから、ならば結婚しない方がいい・・・というのは、勇気の欠如というか蛮勇の欠如というか、好奇心の欠如というか、冒険心の欠如というか、博打精神の欠如というか、駄目でもともと精神の欠如というか、つまりはケチなんだよね。自分が持っているものに執着して、少しでも無くすのが怖くて、ひたすら守りにはいっているというケチ。中途半端に何か持っていると、こういうことになるのかな。

たとえば、結婚って相手のいることだから、はっきり言って自分の努力では何ともならない。亭主が努力したって、馬鹿な女房が賢くなることはない。女房がいくら頑張っても、駄目な亭主は駄目。賢くてハンサムで人柄がいい亭主は早死にするかもしれない。料理の上手な優しい奥さんは鬱病になるかもしれない。ほんと、運だけだよね。

つまり、駄目でもともとの「博打精神」がないならば、結婚なんかできない。5つ試して、ひとつあたったら「大当たり!」とする「博打精神」よ。人間関係に関しては、「安全確実元金保証の投資精神」では構築できません。


完全に同意であります。「フェミニズムとは何の関係もないわ!」「あんなヒステリーで不細工なオバさんたちと一緒にされるのはイヤだわ!」と思っている女性が日本にもたくさんおりますが、藤森先生が言うようなフェミニズムならば賛同できるという人も多いのでは、と個人的には思います。

(あと勘違いされると何なので一応書いておきますと、確かに、もしも既存のフェミニズムの分類から自分の思想に当てはまるものを選んだとしたら、個人主義的フェミニズムに該当するのですが、個人的かつ主観的には、リバタリアニズム>>>フェミニズム、という感じなので、個人主義的フェミニズムというものが独立として存在しているというわけではなく、そもそも、リバタリアニズムに個人主義的フェミニズムが含まれている、という理解です、あくまで私は。)
テーマ:雑記 - ジャンル:学問・文化・芸術

リバタリアニズムの認知度がどれくらいかを知るため、定期的に「リバタリアニズム」をキーワードに検索しているのですが、ためになるエントリを発見しましたのでメモ化。

新自由主義と新保守主義とリバタリアニズムの区別が曖昧であり、また、「リバタリアンのノージックの主張に、つい気分が誘われる」としながらも「リバタリアニズムが正当化されるはずはないが」という感想を持ち、さらに、「村上世彰」氏をリバタリアンと呼んで良いのがどうかに関する個々人の判断の相違も置いておいて、主題としては非常に納得のいくエントリだと思ったので、以下引用しておきます。(個人的には、村上世彰氏はリバタリアンなのかな?、村上氏ご本人の自己規定はどうなんだろう?と思う派であります。リバタリアンかどうかは基本的に他者規定ではなく自己規定ですし。)

★村上世彰と新自由主義の思想 (1) − リバタリアニズムの動機【世に倦む日日】
http://critic3.exblog.jp/4952395/

(略)半年を経て、気分の上で少しばかり変化が起き、真正面から純朴に新自由主義批判の熱弁を奮うことに億劫を感じ始めている自分に気づく。新自由主義の思想も決して全部悪いところばかりではないのだ。と言うよりも、新自由主義を批判する側が、新自由主義を学び吸収して、その方法や感性や技術を包摂して、自己のものとして、逆に新自由主義を凌駕する理論的な生産力と提案力をアピールできなければ、新自由主義が支配する政治を転換することはできない。私はずっとそう言い続けてきた。

反対派が単純に「反対、反対、嫌だ、嫌いだ」と反新自由主義のシュプレヒコールを絶叫しても、新自由主義の中で生きている人々を真に説得することはできない。それは単に「負け組」の恨み節であり、負け犬の惨めな遠吠えでしかないのだ。新自由主義を批判する者が、新自由主義が持っている長所や武器を積極的にインプリメントして応用し、自己活用している姿を証明して説得しなければならない。

ロールズの格差原理論を批判して、人格の別個性を重視、悪平等を拒絶したリバタリアンのノージックの主張に、つい気分が誘われる。私は村上世彰には全く同情しないし、今回の検察の捜査が不当だとも思わないし、検察の捜査を完全に支持する立場だが、村上世彰的なリバタリアニズムの動機について、日本の皮相的なコミュニタリアンは、もう少し内在的にそれを見極める必要があるのではないか。出る杭が打たれるならまだよいが、足を引っ張られるのは本当に嫌なことだ。

平等主義の根本的病理について、私がすぐに想起するのは「ワイルドスワン」の文化大革命の世界で、要するにそこでは、頭が悪くて難しいことは何もわからないプロレタリアートであればあるだけ、その人間は共産主義者として優秀で、特別な発言権と説得力を党によって保障される。無知であればあるだけいい。科学文明は一切が否定され、何の知識も技術も能力も要らない世界になる。個性は否定され評価を受けない。

人間の大脳皮質は1ミリでよいという極論が事実上正当化され、生産と生活のレベルを極限に低下させる方向に社会が向かう。それは劣情の肯定と怠惰への安楽を動機とするイデオロギーだ。嫉妬で人の足を引っ張ることを毛沢東主義は積極的に肯定し奨励する。能力ある人間が能力を伸ばそうとするのを足を引っ張って、原始共産制の痴呆の泥沼に引き摺り落とし、無能と怠惰と無思考の海で群れ合うことを善しとする。

ノージックは、「嫉妬深い人は、もし自分が他の誰かが持っている物(才能など)を所有できないなら、相手もそれを持たない方がよいと思う」と喝破し、平等主義の思想が人間の嫉妬を契機として「引き下げの均一化」に帰着する点を指摘している。嫉妬に注目したのはノージックの慧眼だ。リバタリアニズムが正当化されるはずはないが、リバタリアンを批判するコミュニタリアンが、こうした問題を内面的に克服できず、毛沢東思想的な「能力の拒絶と無知の癒着」のコミューンを楽園視しているかぎり、新自由主義に代わるものは絶対に対置することはできないだろう。(以下略)


アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界
木鐸社
ロバート・ノージック(著)
発売日:1995-01
おすすめ度:3.5

天木直人氏の存在は知ってはいましたが、今日、ご本人のブログを読んで、驚きました。天木氏もリバタリアンみたいですね。蔵氏の本はまだ読んでいませんが、年末にでも私も読もうと思います。

「国家はいらない」という本【天木直人のブログ - 日本の動きを伝えたい】

たまたま本屋で目にした「国家はいらない」(洋泉社)
という本を買い求めて読了した。そしてこれは今の日本国民にとって必読の書であると思った。日本の混迷の原因は、実は国家の機能不全、あるいは、不適切、不必要な干渉の結果もたらされたものである事がわかるのだ。


  著者の蔵研也という40過ぎの学者について私は何も知らない。しかしそこに書かれている内容は、常日頃から私が考えている事を見事に表現してくれている。国家なんかいらないと言う事である。いや、より正確に言えば国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事である。彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識である。

  「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである。勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある。

  彼は面白いエピソードを引用しながら、「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している。


国家は、いらない (Yosensha Paperbacks (033))
洋泉社
蔵 研也(著)
発売日:2007-11
おすすめ度:5.0

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

以下、昨日に引き続き、これ(↓)からメモ化。私個人の考えは、これ(↓)を書いた方とは、微妙に異なりますが、おそらく、この人の考え方のほうがアメリカでは主流だと思われる。
ちなみに、リバタリアニズムと一口でいっても、各リバタリアンの考えは当然ですが同じではありませんし、むしろ共産主義や全体主義とは異なり、多様性を内包している思想であります。全てのリバータリアンたちに共通しているのは「自由市場」を徹底的に擁護する点であります。あと、たまにネット上で、リバタリアニズムを新自由主義だと勘違いしている人を見ますが、新自由主義とは異なりますので、勘違いしないように。

★第 十章 現代の諸問題(Contemporary Issues)(D.Boaz : Libertarianism A Primer の第10章よりの翻訳(邦訳「リバータリアニズム入門」の未収録文)
古村治彦 翻訳
http://www.soejimatakahiko.net/nlm/shomondai1.htm



「いかなる人間にとっても、自由(freedom)は善である」とする概念は、私たちが何の異論もなく受け入れることができる唯一の概念である。一方、私たちが生きている現実の社会には、家庭崩壊、環境破壊、暴力犯罪などの諸問題が氾濫している。こうしたことから、自由という概念を突き詰めていくと、社会に氾濫する諸問題を解決する場合には、政府はいかなる役割も果たすべきではない、という結論が導き出される。多くの人々はこの結論を受け入れることができず、リバータリアンになることを諦めてしまうようだ。

しかしながら、それでも結局、人々はリバータリアニズム(Libertarianism)を支持することになるだろう。何故ならば、政府は、社会に氾濫する諸問題を解決することができないからだ。それどころか、実際には、政府自身がこれら諸問題の発生原因となってしまっている。リバータリアニズムは、それに対して、民衆に対して強制的な存在でしかない現在の政府と比べても問題解決に向けてのより良い枠組みを提示することができる。そこで、これから、その枠組みを議論する。

もちろん、私たちがこれから議論する枠組みは、決して、政策上の、もしくは上記した社会的諸問題に対しての、リバータリアニズムが提案するいくつかの解決策を押し売りするためのものではない。この章の後ろの方でも書くが、結局のところ、これら社会的諸問題の様々な原因について議論することは、それだけより多くの問題についてより深く議論することになる。

社会的諸問題への具体的な政策を扱っている本であっても、政策上の議論の全てに対して焦点を当ててはいない。公共政策に対するリバータリアニズムからのアプローチは、決して机上の空論などではなく、実際に多くの問題に応用することができる問題解決の技術なのである。

この章における提案の多くは、「オムレツを、卵をかき混ぜる前の状態に戻そうとする(unscramble the omelet)試み」即ち、「肥大化した政府が原因となって、現実世界で発生している多くの諸問題」に対して、リバータリアニズムが掲げる諸原理を応用しようとする試みなのである。私たちの目的は、ただ単にリバータリアニズムが目指している目標を明らかにすることではない。それよりは、もっと大きく、本来の自由社会、という私たちが目指すべき大きな目標に導く道を明らかにすることに他ならない。

私たちは、次の3つの要素をはっきりさせることから議論を始めることができる。その3つの要素とは、人々を、リバータリアニズムの考えに対し、懐疑的にし、何でも政府主導の方が、社会的、経済的目的が達成されやすいのだ、とする考えを支持するように仕向ける諸要素である。

まず一つ目は、「自由社会がどれほど豊かに発展してきたかを、人々に認識させないようにすること」である。それらの諸問題とは、貧困、環境汚染、そして人種差別などである。それでもなお、私たちは、経済やその他の分野で人類が、本当の進歩を遂げてきたことを見過ごしてはいけない。私たちは、この本当の進歩を、自由市場(free markets)と、法の支配(the rule of law)を通して認識するのである。

二つ目は、「真実をスナップ写真的に見ること」である。社会の特殊な部分を見過ぎてしまうと、「問題を解決するために、今すぐ行動が必要だ」と、私たちは思ってしまう。しかし、私たちには、その前に慎重になって、経済的、社会的変化を引き起こす「様々な過程」を理解する必要がある。私たちは、 AT&T社が、4万人もの解雇者を出したと聞くと不安を抱く。しかし、アメリカの各企業が、昨年1年間で、総計で200万人分の雇用を創出していることを、私たちは知ろうとしないのだ。

三つ目は、「家父長的温情主義的(Paternalism)について」である。私たちは、自分の周りの人々が、賢い優れた人生選択をすることなど出来ない、とする見方を余りにも広く受け入れている。それどころか、私たちは、政府に向かって私たちの代わりにもっと「私たちの人生に関して上手な決定を行うよう要求」したりする。

私たちの多くは、他の人々が彼らの子供たちにとっての良い学校を選ぶことができず、適切な薬を選ぶこともできず、合理的な経済的決定を行うことすらできないのではないかと心配してしまうのである。こうした誤った考えに留意しよう。そして、個人の責任(individual responsibility)、財産権(property rights)、法の支配(rule of law)、競争による意思決定(competitive decision making)などの大切な諸原理とを心に留めよう。そうすることで、私たちは、これから、現代の政治的諸問題とそれらの解決法について緻密に論究することができるのである。


テーマ:コレ知ってる? - ジャンル:ライフ

リバタリアン(またはリバータリアン)たちの「結婚」についての考え方が、わかりやすく書かれているページを発見。ので、とりあえず、メモ化。

ちなみに、過去何度か書きましたが、私は、現状からして、政府が結婚制度を廃止する可能性はゼロに近いので、「政府が結婚に対して許可を与えている限り、政府は、結婚に関して、いかなる差別も行わないという基本の下に、全ての人々に結婚の許可を与えるべき」という立場を採用しております。(よって、同性婚も合法化すべきだし、また、非婚出子差別解消のためには、個別の訴訟で争ってる場合じゃなくて、法改正が必要、または問題の元となっている戸籍法そのものを廃止すべき、という考えであります。)

(本から自分で引用するのは面倒なので、こういうページがあると非常に助かります。。)

第十章 現代の諸問題(Contemporary Issues)その2
(D.Boaz : Libertarianism A Primer の第10章よりの翻訳(邦訳「リバータリアニズム入門」の未収録文)古村治彦 翻訳 2000/08



(略)リバータリアンたちは、道徳的な保守主義者たちのように、政府が伝統的な家族形態を支援し、奨励する必要があるとは考えない。リバータリアンたちは、人々が自分たちの望む形態の家族を形成することができるように、政府による家族への干渉を止めさせる必要があると考えている。リバータリアンたちは、究極的には、政府が結婚と家族に関する事業から手を引いて欲しいと考えている。

どうして、政府が人々の結婚に、許可を出すべきだと言えるのか? 結婚は、自発的な同意の結果であり、相互契約であり、多くの人々にとっては深淵な家族的意義を持つものでもある。こうした結婚というものに対して、政府は何らかの役割を果たさねばならないのだろうか? 私たちは、結婚という概念を、全ての人々の手元へ、市民的な契約もしくは、ある人々にとっての宗教上の誓約として、戻すべきなのだ。

このような政策によって、結婚自体がしっかりとしたものとなるだろう。国家は、結婚に対して厳しい規制を課してきた。この規制によって、全てのカップルは、根本的に1つの型に当てはめられた契約しか与えられなかった。核家族の数の増加と、働く女性たちの数の増加など、社会的な変化が大きくなるにつれて、国家が保証する、ありきたりの契約は、より多くの家族の形態に合わなくなってきている。カップルは、それぞれ自分たちに合った契約を結ぶべきだ。裁判所は、商取引上の契約に与えるのと同じ敬意を、それぞれの結婚の契約にも与えるべきだ。

政府が結婚に対して許可を与えている限り、政府は、結婚に関して、いかなる差別も行わないという基本の下に、全ての人々に結婚の許可を与えるべきだ。国家が異人種間の結婚に許可を与えないのは誤りである。連邦最高裁が1967年まで、結婚に関する差別を違憲としなかったのは正義を捻じ曲げたものであった。同様に、今日、同性間の結婚の権利を否定するのは誤りである。

ジョナサン・ラウチは次のように主張している。結婚には、3つの素晴らしい社会的利益がある、と。それは、子供たちが落ち着いて育ち、男性たちが教化され、そして、配偶者の病気や老人たちの面倒を見ることに対して責務が生まれることである。男性の同性愛のカップルにとっては、少なくとも後半の2つは実行可能であろうし、女性の同性愛者たちのカップルにとっては、3番目と、おそらく1番目は、実行可能である。結婚とは、ある人間が、愛情と責任感を持つことでもある。それに公式な許可を与える場合には、人間の尊厳を基にしなければならない。

保守主義者たちは、「同性間の結婚が、異性間の結婚を脅かしている」と主張している。しかし、そんな証拠はどこにもない。父親のいない子供たちで世界をいっぱいにすることは、男性の同性愛者たちのカップルではほとんど起こらない。そして、異性間であっても、同性間であっても、「より多くの」人々が結婚することは、結婚制度の確立に対して、確実に役立つ。


その1その2、すべて読みましたが、ほぼ8割がた同意。リバタリアンは政府による個々人への介入をできるだけ無くすのを望むので社会民主主義とは対立する立場ではありますが、「戦争は大きな政府を創り出す」という理由から、同時に「平和主義」というのも特徴の1つでして、日本で言うところの「護憲派」の方々とは通じるものがある。なにせ、アメリカのリバタリアンたちは、侵略戦争に大反対で「アメリカは、世界にとっての警察官であることの用意などできていない」という現実認識があり、国防に専念せよ、というのが基本であるので。
テーマ:国際結婚 - ジャンル:結婚・家庭生活



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